私の長い人生の旅路
雑木の庭のアプローチ部分
先日30~40代の女性の方が秋なのに、こんなにたくさんのお花が咲いているお庭は珍しいですね、すみませんが見せてくださいとカメラを持っておいでになった。
私は30歳を過ぎていました。
舅姑さんと三人の幼子と主人のいない夕餉でした。
仕事だけだったのでしょうか、毎晩遅く帰ってくるマル夫さん。
マル夫さんのいない晩ご飯に、あるとき舅姑さんは何であの子(マル夫さん)は帰りが遅いのかと私に尋ねられた。
私はマル夫さんから、男は一旦家を出たら何があるか分からないから、何時に帰るかなど聞くものではないといわれていた。
現に、そのころ男性は企業戦士だった。
だから舅姑さんたちが心配しても、そのような時代になっているので仕方がないのです、と言ったような記憶がある。
そんな男性を称して、働き蜂といっていた。
奥さんは家を守る役割でした。
結婚前にお仕事の経験のある私は、社会から隔絶されている感じが否めなかった。
30代になり、こんな状態の中、これから長い人生の道のりを考えた時、どう生きたらよいのか、ただ茫然と立ち尽くし途方にくれたことが幾度かある。
主人に、また世の中に取り残された感じがし空しかった。
それからだった自分の可能性に挑戦してみようと決意した。
三番目の次女が幼稚園に入ると、私は医療事務の勉強を始め、医療事務の資格取得した。
月初めの一週間~10日間だけの医院のお仕事は、家事と仕事が両立できることが魅力だった。
そのほかの時間は手編み教室に通って、主に家族の着るアラン模様のプルオーバー、カウチンセーター、アンサンブルニット、レース編みなどを仕上げていった。
手作りの大好きな、姑さんやマル夫さんはとても喜んでくれた。
それは30代で終わった。
40代は秘書的な仕事を10年間経験した。
私は秘書のようなお仕事がいま思うと、一番自分の性格にあっていると思うとともに社会情勢を知ることができ、社会とつながっていることが実感でき、毎日が非常に充実し、楽しいお仕事だった。
50代以降はお料理教室に通った。
子供のころから植物好きな私は、ガーデンコーディネータの資格を取得し、単発的に造園業者と仕事をすることとなり今日に至っている。
お陰様で後半の人生は、お庭と素敵に暮らすを私のモットーとし、自分自身のこころと対峙しながら人生を生きている。
けれども、生きている人間だもの、そこには日々の暮らしの営みがあり私には様々な日常生活がある。
生きている限り学びがある、とても有難いことだ。
30歳の時、長い人生にただ茫然と立ち尽くした私。
70歳で肺腺癌を患ったが、主治医の先生からは私の身体状況に見合った最善の医療を施していただき、相性の合う主治医の先生に巡り合えたことに感謝あるのみです。
お陰様で、私はたくさんのお徳をいただき生かされている。
私はまだ必要とされ生かされている、素敵な人生を送っていければと深くおもう。
(2021.10.04 月曜日 14:49 記す)