闘病中だった父と彼岸花
亡き父は末期のすい臓がんで平成元年10月23日に亡くなった、今の私の年齢76歳だった。
亡き父は、読書家で綺麗好き、万年青年とご近所の方はそうおっしゃって下さっていた。
私はそのころ父と似たような年齢の舅姑さんに仕えながら、仕事と家事の両立をしていた。
このお仕事について3年目頃に、実家の父がすい臓がんの末期で余命3カ月を知ることとなった。
私は3時に仕事を終え買い物をし、家族の食事作りを終えると、せめて付き添ってくれている母のもとに食事を毎日届けていた。
その時々のお花とともに。
亡き父の一生は、最後の瞬間を美しく死ぬために人生を生きているような人だった。
父の書き残した「心に残る言葉」の中に、「顔施」という親鸞聖人の言葉が書かれてあった。
身動きできない重病人でも、自分を看護してくれる人に感謝の気持ちを表し示す方法がある。
それは 明るい顔をして見せることである。
一日一日の人生論 p.211と記されてあった。
弱弱しくなってゆく父だったけれども、私が病室の父を毎日見舞うと父は精一杯「にこにこ」してくれた。
しかし、彼岸花が好きだった父に、当時その花のネガティブな花言葉を知らなかった私は、不覚にも喜んでくれると思って見舞った時だけは悲しい顔になったことが、彼岸花をみると思い出す。
読書家の父が人生最後に読んでいた 南方熊楠の生涯を描いた 歴史小説の大家 津本陽著「巨人伝」を病室で、来る日も来る日も母と交代で日課にして読んであげていた。
私は読んであげてびっくりしてしまった、南方熊楠(みなかたくまぐす)は1867年(慶応3年)和歌山に生まれた。
10数ケ国の言葉を自由に使いこなし、世界を駆けた博物学者、知の巨人と呼ばれていた人物であったことだった。
父のもとに付き添っていた母の話によると、その23日当日の朝は会話が成り立っていたそう。
その直後ちょっとおかしいから来てほしいと母から電話があった。
私が駆け付けた時は意識はまだ残っていた。
すこしは会話ができた。
午後から次第に意識が薄れていった、「私は大丈夫だよ、大丈夫だよ」と父の身体をさすってあげていた。
母は親戚に電話を入れたりしていた。
母は父の耳元で、私もすぐに逝くから待っていてねと言っていた。(母はその後30年も生きられた。)
親戚や同居の家族が駆け付けてくれるのを待って静かに安らかに息を引き取った。
端正な父らしい最期だった。
津本陽著「巨人伝」は棺に納めたことも今の時期になると併せて思い出す。
(2021.09.24 金曜日 11:36 記す)